「ノントン・ワヤン」         

                            高橋 佐貴子



夜八時からの開演だというのに、松本亮先生は二時には会場入りするという。昨年のマンクヌゴロ王宮での公演準備は何事もなく順調に進んだように見え、それが頭にあった私には、なんとも早い出発に思えた。昨年から二年連続でジャワにご一緒させていただき、今年は影絵詩劇『ジョコ.タルブ』のセロファン係りを担当することになっていた。
会場に到着して、こっち(観客側)は影側だからグドゥボクは向こう側にとか、グドゥボクの両袖を飾るシンピンガンのワヤンたちはこの位置までとか、現地のスタッフに先生が色いろと指示を出しているのを見る限り、いたって順調に、そして着々と準備は進むかに思われた。
ベテランの皆さん曰く「いつもこんなものよ」という開演までのバタバタを挙げれば、次のとおり。
準備されていたブレンチョンは五百ワットはあろうかというハロゲンランプ。ひとまずリハーサルを行ったが、ハロゲンに触れてしまったセロファンからはモヤモヤといやな煙があがった。これではやはりきれいな影も出ないということで、クリア電球と取り替えてもらうように手配され、こちらは開演の間近になって無事に到着した。その他にもお願いしていた踊り子さんがキャンセルになって代役がたてられたり、踊りの場面での照明がうまくいかず、演出が二転三転したり。実行委員会の配慮で開演を三十分遅らせてもらわなければ、私はお弁当を食べる余裕さえ失っているような始末だったが、緊張している暇さえなかったのは、かえって有難いことだったのだと思う。開演直前までのバタバタも何のその、どんな事態にもゆるやかに対処し、動じないダラン、キ.マツモトからは「まぁね、ってなもんですよ」という、いつものセリフが聞こえてきそうだ。
いったん始まってしまえば、あとはおわりに向かって一気に駆け抜けていく。セロファンを両手にブレンチョンの真後ろに立つ。時おりダランのワヤンさばきを脇腹に受けながら、ワヤンがクリルを走る衣擦れの音や、ダランの息づかいまでもが感じられる特等席で『ジョコ.タルブ』を堪能する。そう、なぜだか観客でいる時よりも、物語に入り込んでしまった気さえする。ダランの静かな気迫がそうさせたのだろうか、それとも自分が少なからず物語の一部を担っていたからだろうか。不思議な感覚だった。
公演が終了し手早くクリルが外された舞台に、スッと抜けた風が心地よかった。
『ノントン・ワヤン』。これは「ワヤンを観に行く」という私が知っている数少ないインドネシア語のひとつ。ベチャのお兄さんに「どこに行く」という顔をされれば、覚えたての「ノントン・ワヤン」とかえす。今回の「ノントン・ワヤン」は、ジョクジャでのワヤン週間のワヤン.ウクル、影絵詩劇『ジョコタルブ』、ワヤン.ゴレ、ワヤン.ベベルなどをかわきりに、ソロのTBS、そしてプルウォケルトでのキ・ウントゥス『ムルウォコロ』に終わった。
徹夜のワヤンはまだまださっと見に行くという身近なものではないけれど、いつかは「ちょっとそこまでノントン.ワヤン」と六時間の道のりさえ、にこやかに出かけてみたい。
いつかの夢はさておき、まずは博物館でじっとお留守番しているワヤンたちに、このジャワのやさしくなつかしい風を届けなくては。
(博物館学芸員) 

ゴロゴロ通信57
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キ・ウントゥス・ススモノ寸描 松本亮
シンデン・ジュパンとの気楽な30分対話
狩野裕美(ソロ在住)+松本亮

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