ゴロゴロ通信第68号
2011.07.31 日本ワヤン協会
|
|---|
|
もういまごろは、誰しもとっくに収まってるかと思った福島原発事故だったが、とんでもなく10年、いや20年以上ともいわれる。半ば永遠に放射能の脅威をうけねばならない? 大震災、大津波の被災者の苦痛をおもえば、なおも先は見えない。それでも生きてる人間はなおどうしようもなく生き延びていかねばならないのだ。ともかくあんまり嬉しくもないことがつづきそうだ。ぶつかったとしても、ほのかな喜び ノ ノ
ま、白ぱっくれて、この七月の、ジャワ、スラカルタ市、マンクヌゴロ王宮プランウダナンの間での影絵詩劇「野獣、恋のバラード」(インドネシア語版{Raksasa dan gadis cantik}=ラクササと美少女。原作=ボーモン夫人「美女と野獣」)上演 第一報を、遅ればせながらお送りすることにする。=小報告・松本亮 インドネシア語版「野獣、恋のバラード」マンクヌゴロ王宮上演 2011年七月四日本番当日。まずクリル(白い幕)設営確認のため、午前十一時会場をのぞきに行く。プランウダナン上演は二〇〇六年と七年に続いて、三回目である。マンクヌガラン事業担当イブ・ガマルの手慣れた采配で、すでにクリルの外枠は立ち上がっている。ホテルへ戻り、あらためて三時頃会場に入るとここでクリルの一灯の火の電球の不備に気付き、小一時間で取り替えてもらう。ソロでの三回、ジョクジャでの五回、都合七年目である。もはや設営で格別のトラブルに見舞われることもない。 爽やかな暑さはしだいに夕風に吸われてゆき、六時の弁当の時刻、やがて懐かしい友人、はじめて逢う見知らぬ友人たちの訪問を受ける。私は人形たちの姿をととのえ、直接私の背後で舞台進行を手伝ってもらう中村深樹さん、塩野茂さんたちに何とはなし声をかける。 クリルに向かった私の右手に、ソロ在住の著名なプシンデン狩野裕美さん、ソロの音楽家ジョコ・ダルヤント、スギヤント、ドゥイ・ハルヤントさんたち、さらに東京からの森重行敏、小林賢直さんらは和楽器をかかえ、そして左手にはそれぞれ大きな器械(?)を構えた音響技術の大和田尚さん、照明担当の中村伸さんが控える。午後八時、予定の定時に、狩野さんの透きとおる歌声が聞こえはじめ、本番開始である。 人形を遣う本人には時はすべて淡々として過ぎる。人形たちは気ままに、出来映えなどはどうでもよく、ただ気持ち細やかに、大胆に時を刻むのみ。一時間半の終演を迎える。 ワヤンでは終演と同時にお客は三々五々闇に呑まれていくのが普通だが、この日はなぜかお客は場を離れない。私は名通訳でもある狩野さんに手伝ってもらってしばしの挨拶をする。お客はいつにもまして多く、学生たち、またワヤンには珍しく女性のすがたが目立った。ソロの旧知のダラン諸氏は断食月をまぢかに迎えてかほぼ欠席だったが、私にはジョクジャから遠路駆けつけてくれた州政府のパ・ヌル夫妻、畏友パ・ストヨ夫妻の笑顔がことのほか嬉しかった。パ・ヌルは、ああ、いい物語だった。来年はぜひジョクジャでと、にこやかにかたい握手だった。このパ・ヌルという人、私がこの人に出会えなかったらジョクジャ、ソロでの七年連続公演のチャンスに恵まれるなど、全くあり得なかったのだ。 マンクヌガランの当主グスティ・ヘルもなぜか大喜び、イブ・ガマルもいつになく喜んで、「一年一回といわず、五ヶ月に一回くらいやって下さいよ」なんておだてる。お客はおそろしい。百人いれば百人の心はみな違うのだ。しかも心優しいお客は列をつくって私たちに握手の礼を求めにきてくれるのだった。私にははじめてだった。美しい宴の夜のここちよい散会を主賓との接触で終了させようとするこの地の習性を異国のわたしにも求めにきてくれるのだった。ともあれ一夜の演者にとってこれ以上の幸せがまたとあろうか。 |
| 今回の公演に関連して、七月三日深夜十時〜十二時、翌四日の本番盛り上げという、ソロのMTA放送(インターネット放送)での二時間生番組に出演(局側の通訳を伴って。松本、森重、小林、中村の四人)した。まずはお笑い番組的な気楽さも混じるものだった。この放送局は翌日の本番全曲を録画した。 七月四日……コンパス紙に、当日の「野獣、恋のバラード」予告が載る。 七月六日……コンパス紙、ソロポス紙、ジョグロスマル紙に写真とともに公演紹介が載る。 七月十六日……コンパス紙のSOSOK(人物)欄に、二分の一ページを費やし、松本亮の人物評 が載る。以上のどれか、それに何人かの方の原稿が、次号ゴロゴロ通信に掲載 される。 |
日本ワヤン協会
東京都世田谷区上北沢4-30-10-707
tel&fax 03-3303-6063
E-mai: banuwati@kt.rim.or.jp